みずたまり

はしりながらねむれ

階段

かいだん冬の時期と花粉症の時期には外を走ることができず、また堕落した生活をしていたこともあってふとってしまっております。そんなわけで花粉症のうすらいだ4月下旬からジョギング&ウォーキングをふたたびはじめました。まだまだ歩くこと抜けずそのため距離を稼ぐためにいろいろなコースを試してみております。それで、今日は、コースというか市民体育館の前の階段を5往復することも加えてみましたのでした。

鳥取市民体育館といえば、あだち充「タッチ」の最終回で出てくる大切なシーンの大切な場所です。インターハイに出場するみなみがやってきていた鳥取市立体育館に達也が応援にやってきて思いを告げます。その河川敷というかもぼくのコースにはいっております。はい。

川というのは水のなかがれというかまあそういうものだけれど、水のながれが必ずしも川ではないわけで。火というのは東京オリンピックの聖火のように絶やさずに燃え続けさせているのもありますが、一般的には燃料がなくなれば消えるわけであります。 火と水、燃えることと流れること、はなんだか似ている気がします。でも、水は、流れは、すこし違うようにもおもえます。

ゲリラ豪雨

雹iPhoneに載せているYahoo!の防災予報が1時30分からの10分の間、210mm/hのゲリラ豪雨の予報をしらせてくれた。同僚たちにしらせつつまっていると予報通りすごい降りになって、雹までばりばり降ってきた。ゲリラ豪雨と雹におどろきつつ、そもそも、こんなピンポイントの予報ができることに驚いたのであった。

完全試合未遂と交代

応援している野球選手のひとりにダルビッシュ有がいる。今日、お昼過ぎに完全試合未遂であったことを知った。帰って来てMLBの公式ペイジで彼の投球を見た。すごいことである。MLBは惜しげもなく(ま、そういう商いなのだろうけれど)ダイジェストを見せてくれるのでみていると、現地の解説も回を追うごとに盛り上がっていって、8回が終わったところでは、「we will see it , Darvish comes up for the night after 8 perfect innigs」と興奮していた。

さて、打たれたあとのなのだけれど。ダルビッシュが笑みをうかべて(そりゃ悔しいだろうに)いて、それに内野の選手たちが寄り集まって、きこえないけれど、「気をおとすなよ」など言っているのがまことにすばらしくうつくしい。さらにおどろくことに、あと1アウトで終わるというところを、たった1つのヒットを打たれただけで、ワシントン監督はダルビッシュを交代させた。なんというすばらしいことだと感心した。あそこでひっぱって完投勝ちというのもあり得ただろうけれど。あそこで交代というのはダルビッシュにとってもチームにとってもよく考えてみると、ひと呼吸おくということもふくめて、最高の采配だったのではないだろうか。選手をおもうというのはこういうことなのだ。 

教科理論研究会in石山

きふじん尊敬でき、信頼できる、仲間との勉強合宿に参加した。夏はいろいろ都合がつかないので、年に1回だけの参加となるのはぼくだけ。ぼくのやっていることをするどく理解・批判してもらえる眼がたくさんある。これぞ信頼と尊敬の関係であるとおもう。

JR石山駅で降りるのは実のところ初めてであった。だから、新快速が停まるのもしらなかった。石山寺へは時間がなくて行けなかったが、瀬田の唐橋のふもとの宿舎で過ごしたのがよかった。瀬田川はボートが盛んに練習していて見ていて、コックスの声をきいていて心地よかった。 

合宿の夜は、外でフレンチをいただいたあと、部屋のみ。これがすごかった!世界のビールが買い込んであり、また参加したみなさんがそれぞれの土地のお酒をもちよってくださっていた(ぼくはせず)。北会津ワイン「白貴婦人」はわかくてフレッシュな食中酒にぴったりの感じだった。明治33年の創業以来、自家製のぶどうをつかってワインをつくてっているということであった。 

日付としては3月11日になった。いまあの日、午後3時17分に届いた友人からのメイルを読み直している。そうして考えていると、この日になってあらためてここに何かを書くことがひどく軽薄な気がする。毎日がむしろ震災であるはずなのだから。

日付としては3月10日の朝日新聞の「ひと」欄に大口玲子さんが載っていた。単純とかわかりやすさがあのくらいの短い文章には求められるし、読者だって、短歌に興味をもっているひとばかりじゃないことはわかっている。けれど。むしろわかりやすくするときに捨象されたものこそがそのものではないかとおもった。記事がわるいとかそういうことでは、決してなくて。

内田樹村上春樹(こうなれべるとどちらも樹だ)が世界レベルで受け入れられ共感されることを論じているときに、どうしてわたしだけしかしらない物語と同じことがここに書かれているのかと読者がおもうのはどうしてかというようなことを書いていた(と思う)。評論家は、例えば、中国の若者に村上春樹が受けるのは「孤独感・喪失感」が共鳴するのだと言うけれど実はそうじゃない。もともと中国の(例えばのはなしですよ)若者に「孤独感・喪失感」というものが心の中にあって、それにぴったり合致するものを村上春樹が用意しているのではなく、いや、そういう既視感ではないだだと言っていた。じゃあなにか、それは、村上春樹の作品には、もともと読者になかったものをその読者がもともともっていたように記憶を再構築させて既視感にするような強い力があるのだと。言い換えるならば、作品を読むことによって、読者にはもともとなかったものを、あたかも既にもっていたのに確固たる名付けが為されぬままであったもののように記憶を書き換え、その上で、ぼく固有の物語がここに書かれているのだ!と思わせる二段階の作用をうけてしまっているのだと(かなりざっくりの記憶による記載)。

あるものをないように感じることを日常と言うのであろうか。
ないものをあるように感じることを日常と言うのであろうか。

ぼくたちじしんが星であるのならば、この星をまわしつづけるものはなんなのだろうか。
 

認知言語学など

えだここのところ朝少し雪が降っている。昼には溶けるほどの雪であるが、職場の駐車場にある桜の古木などはなんだか、『モチモチの木』に出てくる滝平二郎による挿絵のような感じである。むろん朝なのだけれど。

めずらしいことなのだが概念について議論している夢をみた。レイコフとジョンソンとかプロトタイプ理論とか認知言語学とか認知意味論的なことがでてきた。大学院のころに読んでまんまの理解なのだけれど、出てきた。われながらそういうことを覚えていたというか残っていたのだと不思議に思った。いまごろ認知言語学とか認知意味論というのはどんなところまでいっているのだろうか。 

TSUTAYAの旧作100円セールとか、火曜日は旧作半額とか、旧作5本で1000円とかいろいろあって、気づくと今年になって案外観ている感じになっている。ま。最新作品とか人気作品とは無縁なものばかりであるけれど。

クロストーク@同志社女子大学

郡家駅質的研究であり、ライフヒストリー研究であり、ナラティブの実践的研究であるところの、13年め?のクロストークを週末に今年も行った。今年は、何といってもぼくが3年の沈黙?をやぶって、4月から現場に復帰したので語りきくことは甚だ多いのである。いくら時間があっても語りきれないとはまさにこのこと。あ、そうそう、会場はいつもの同志社女子大学ジェームズ館の一室。何度来てもすてきな館だ。今回は、次善に資料もほぼばっちり揃えて(先輩に誉められる)迎えたこの日であった。充実というよりも信頼をおおく感じたことであった。

 語り合うことを終えると、京都駅のman in the moonへ。三人でひとしきりビールを飲んで、また語った。

その夜。思いもしないかなしい報せが届いた。