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ジョージのところ。door countyにいたころ。ジョージがよく男の料理をつくってくれた。料理の腕はドロシア<ジョージ<ぼく、だとおもうのだが、その頃はジョージの補佐をしていた。ジョージの料理で特に印象に残っているのが、鶏胸肉(たぶん胸だとおもう。しかも冷凍!)のガーリック風味+その肉汁をもちいたリゾット、というのと、ハンバーガーだ。解凍の鶏肉はとにかく臭くて、ガーリックをたっぷりきかせていた。その鶏肉はたしか最初に茹でていた。その茹で汁をつかってリゾットをつくっていた。もうひとつのハンバーガーというのはまさにハンバーガーである。牛ミンチをキロ単位で売っているのでそれを買ってきて、解凍して、こねる。こねたら、庭に置いてあるバーベキューのコンロで焼く。バンズもいっしょにたしかあぶっておいて、あとは挟んでトマトケチャップ。だったとおもう。やはりジョージのハンバーガーもオニオンスライスは入れないのだと思ったことだった。いやしかし、肉をこねる、焼く、というシンプルな豪華ぶりに驚いたのだった。肉には玉葱などがまるでハンバーグのように入れてあるとか、香辛料とうか味付けをもうちょっとするものだと思い込んでいた。でも、ブルームーンバーガーもウィスコンシン大学マディソン校の近くで食べたのも、ニューヨークで食べたのも、肉肉しさが印象的で、やっぱり肉だけであった、シンプルに。むしろ一緒に入れるチーズやベーコンなどがどうであるのかというのに味のおもしろさがある感じだった。
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door countyは鳥取のようなところで、自然が豊かで、おだやかだった。高校には本当はIDみたいなものがないと入れないとか、銃を持ち込んでいないかのボディチェックがあるところなどもあるのだが、そこにはなかった。首からつりさげていたかもしれないが、(すくなくともマディソンウエスト高校での名札=IDは残っている。が、サザンドアのはない)たぶんIDを確認する必要がないくらいぼくのようなアジア人はいなかったから日常的には明示していなかったと思う。そこはほぼみな白人だった。一目でぼくを同定できる程の単一性や均質性をもつ集団(人種的には)だったので、ことさらIDを必要としなかったのだろうか。
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イタリアのプレリーというところのIDケースをもらった。
東北の旅
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東北と言ってすぐにおもうのは、ぼくのばあいは、(震災とか原発をのぞくと)ひと、なかまのことだ。ウィスコンシンのメンバーが山形に2人、仙台に1人。それから塔の仲間のとくに仲の良いなかま。それから、偶然なのだけど、マディソンウエスト高校に当時留学生としてきていた若人がやはり山形にいる。土日が塔の集まりなので、金曜日になんとかしてウィスコンシンのなかまとマディソンウエストで出会った若人に会いたいとおもって連絡をとった。するとみんな会えるという。それでまず、金曜日は鳥取発8時40分羽田9時55分着の飛行機で東京に向かった。そこから山形新幹線で山形へ行った。予定より随分はやくついたので途中かみのやま温泉駅で降りて、斎藤茂吉記念館へ立ち寄った。涼しいとおもっていたのだがこの日の山形は異常なる暑さ。なんとか記念館を見て回って、扇子で扇ぎながら山形市にたどり着いた。夕方6時には山形駅前のちょっとすてきな居酒屋(焼き鳥)をマディソンウエストで出会ったこうへいくんが予約してくれていて、まずはふたりでスタートした。ほどなく、しょうじぃとみっちぃが合流。こうへいくんはちょうど就職がきまったそのプロセスや留学のことを話してくれた。しっかりした、そして気の利く、とてもすてきな青年にこうへいくんは成長していた。うれしかった。しょうじぃやみっちぃはなんということもなく、8年前にマディソンであるいはシカゴで飲んでいたようになんでもない話をした。午後9時前に名残惜しくもそこを別れ、みっちぃとふたりで仙台行きの高速バスに乗った。知らなかったのだが、仙台と山形はとてもちかく、高速バスがいっぱい出ていて、約1時間(900円)で着いてしまう。着くと、らっしゃーがまっていてくれた。三人で、震災のことやそれ以外のこともなんでもないことをまた語った。とても温かくて、相変わらずで、会えたことをほんとにうれしくおもった。
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明けて、仙台から一関へ新幹線で行くと、塔のひとびとが集まっている。震災をおもわずに集まったひとはないだろう。貸し切りバスで気仙沼へいき、梶原さんの実家の早馬(はやま)神社という歴史のある神社へ行った。そこで、宮司さんであり語り部となってもいる梶原さんのお父さんや弟さんの話をきいた。最後には、唐桑地区の海産物と復興祈願の絵馬をいただいた。こちらこそお世話になっているのに、そんなことをおもうと渡されながら泣けてきた。人間というのはひとりではいきていないのだということをおもった。歌会もかるたもとてもよかったが、この梶原さんのご実家のみなさんに出会えたことはぼくにとってほんとうにおおきなことであった。人としてどう生きていくのか。
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ホテルは海岸の高台にあった。ホテル近くの復興屋台の焼き鳥屋さんにも伺った。翌日は南三陸などに行った。どのように書けばいいのかわからないが、とにかく、ひとりとしてどう生きるべきか、ひとりではなくだれかとみんなとどうすればいいのかなどをおもった。あいたいとおもうひとにあってきた週末だったのだが、やはりまたそうしているうちに、会いたいとおもうひとがうかんできていた。 それから防災対策庁舎の屋上から津波がくるたびにひとりひとりながされていったことをおもった。基礎だけがのこる土地にシロツメクサがたくさん咲いているのが印象的だった。まだ、語り得ない。でもそれをもちつづけようとおもう。
6階からの風景
そんなわけで、ちいさなちいさな原稿などもずいぶんと締め切りをすぎての提出となった。われながらなさけない。to do listとかcan do listとかつくらないとうごけないのかもしれない。
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ここのところは、初任のころ以来の時間外のお宅訪問がかなりつづいている。これという手応えもなくつづけるしかないのかもしれない。きっとぼくたちの仕事はそういうものだろう。今年はノーリアンズブラックも蒔く時機を逸したままだ。
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2005年から住んでいるいまのマンションタイプの賃貸とももうすぐ別れることになった。ふとみる景色がこの8年間ずっと(いっときはウィスコンシンにいたが)この6階のベランダや廊下からであったことに改めてはなれていくことのおおきさを思う。