みずたまり

はしりながらねむれ

わかれをかさねる

 少し前に、たまたまというか、わりとよく行く道の駅に行った。何を買うというわけでもないけれど、なにか野菜があるといいなというくらいの気持で。すると、桃や梅や桜や辛夷などの束が無造作というぐらいどうでもいい感じ(どれも100円〜150円くらい)で売られていた。ぼくは、そのどうでもいいようななかから桜をえらんで、レタスのような葉物の野菜といっしょに抱いてレジで精算した。桜の蕾は固く閉じていたけれど蕾の数はとても多かった。

 鳥取は三月もやはり気温があがらない日がつづいていていたけれど、テーブルの隅においた桜はすこしずつ蕾をふくらませていった。やはり室内はあったかいものなのだ。

 昨日になってこの桜の束がほぼ満開になった。毎日おきると水をかえていたが、それ以外にはまったくなにもしていないのに桜は花を咲かせた。すごいな。

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 人は現在の自分からのみ成り立っているのではない。(略)ひとつの地表の下にいくつもの違った地層が重なっているように重なりあっている。三十六歳のあなたは、あくまで地表であるにすぎない。ーというような比喩を使って考えたかどうかは知らないが、この本は、そのような発想に基づいて、地表の下に埋もれている過去の自分の地層を明るみに出そうとする試みである。前作『冬の日誌』では、かつての自分の身体に起きていたことを著者オースターは発掘した。そして今度はこの本で、かつての自分の心に、内面にー内面と呼ぶに相応しいものが誕生する以前までさかのぼってー何が起きていたかを思い出し、生きなおそうとしている。

柴田元幸「訳者あとがき」ポール・オースター『内面からの報告書』)

 

 

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ことは、

ひとは、

すこしまたすこしとかわってゆく。

それぞれに別れ告げ、それをかさねながら。