みずたまり

はしりながらねむれ

コーヒー

 高安国世全歌集をざーっとそれはそれは粗くみてみたところ、「コーヒー」の歌は次の二首しかないのではあるまいか。(追記。松村正直さんによって、以下の歌の指摘がありました!

カタカナ以外だと
Coffeeのe一つ剥げし壁面に向いて長く待たされている/『街上』1962

珈琲豆 | 塔短歌会

 

 

 話はもどって、その二首。

コーヒーの湯気消えてゆく赤壁の思わぬ高さに黒き掌の型/『虚像の鳩』1968

 

騒然たる雨の舗道の音を愛すコーヒーを飲みし身は暖かく/『湖に架かる橋』1981

 

ところで、「コーヒー」という表記は、じぶんの歌に入れるときに「珈琲」にしたい気持になるようにおもう。でも高安さんはそうはしていない(とおもう。「coffee」の歌もあったし、「珈琲」の歌もあるかもしれない。)

 

ふるさとの訛(なまり)なくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし/寺山修司『空には本』1958

 

啄木の歌とのことはさておき、ここでは「モカ珈琲」と書いている。どうだろう。ぼくなら「モカコーヒー」にするのではないかな。その時代は「モカ」「珈琲」との表記が普通だったのか。

 

珈琲(コオヒー)を活力としてのむときに寂しく匙(さじ)の鳴る音を聞く/佐藤佐太郎『星宿』1983

 

佐太郎にはなんとなく珈琲の歌がわりあいあったのではないかというおぼつかない印象記憶がある。それで、たまたま手もとに一番近かった『星宿』をみると、上のようにルビをうっている。「ノート」を「ノオト」とするような感じの、その言語本来の発音に近い表記をするということが意図されているのだろう。きっと。とりあえず外来語の表記については

外来語の表記:文部科学省を出しているけれど、これをすべて読む気力がないので、リンクを張っておく。

 

話は、コーヒーにもどって、例えば「モカ」は「モカコーヒー」と表現することがあるだろうけれど、「ブルーマウンテン」や「イエメンモカマタリ」などの豆は「ブルーマウンテンコーヒー」とか「イエメンモカマタリコーヒー」などと表記しようものならそれだけで短歌の音数の半分くらいを使うことになる(それはそれで楽しいけれど)。そうなると「モカ珈琲」のように「ブルーマウンテン珈琲」「イエメンモカマタリ珈琲」などもほぼ目にする機会はないだろうと予測される。と、書きながらこれはこれで実は味わい深い表記だなともおもってしまう。(どっちだよ!)

 

ところで、ぼくの珈琲豆は「まるたつ」珈琲に定まって長い。「まる達さん」「達さん」と呼ばれる先輩がやっている焙煎屋さんで、ほんとうにおいしい。手仕事とはこういうものだという感じで焙煎の前と後でそれぞれよくない豆を一粒ずつ取り除いたり、気候や豆によって焙煎時間や温度の調整をなさったりしている。なおかつ、いやそれ以上に、環境についても深い考えや思想をお持ちで、木樵のような山での生活をなさっている(ちょっと大袈裟だけど)。その達さんには珈琲を淹れるためのグッズも紹介してもらっていて、写真のミルはもう13年くらい前に購入したものだ。手動のものももっているが、このフジロイヤルの電動ミルはほんとうにすばらしい。挽き具合が安定しているし、なにより、壊れない。飲むぞ!というときには直ぐ挽けるるし。名器とはこのこと。

 

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あした先づ飲む珈琲はくさぐさの思想より濃く胃の腑に沈む/高野公彦『淡青』1982