みずたまり

走りながら睡れ

シバザクラ

桜がちりはじめた鳥取

むかし、シバザクラを嫌いだというひとがいた。どうしてきらいなのかという理由をきいたのか、きかなかったのか、それさえも覚えていないくらい、とにかく嫌いということが印象にのこっている。シバザクラ。それほど嫌われる類のものではないのではないかと、ぼくはおもうのだが。いま鳥取シバザクラはどこも花の盛りを迎えている。

 

ときおり、器が小さいとじぶんのこと(ひとのことも)をおもうことがある。大概そういうふうにおもうのは、名誉や地位や評価やお金が、直接には自分にからんでいないのに、あたかも自分に直接にかかわることのように思ったりしたときだ。

 

器自体のサイズをかえることはできないから、いますでに器をみたしたいて、しかも、大切そうに思えるものを器の外に出せば、器の容量に余裕がうまれると考える方法が、先日の朝日新聞の「折々のことば」に載っていた。なるほどそうか!と思う。思う一方で、短歌のことをふとかんがえた。

 

短歌をやっていて、いつまでを初学者というのかは、わからないが、まあともかく、自分がまだ今以上に初学者だったことろに、よく詰め込みすぎとか説明しすぎと評された。たしかに、それはそのとおりで、いまでもそれらを妥当だとおもうし反論するところではない。でも、そのときは、短歌の定型になんとかして盛り込みたい言葉がありわ、なんとかしてこんなふうにこの短歌という詩型のなかでなにごとかうごかしたいとおもうところがあったのだ。別の角度から言えば、歌としてのよしあしの見定めなんてないのだから、こんだけのおもいをのせるぞ、と思っていることをコントロールするなどと発想することはではないのだった。

 

それなら、いまはどうか、と、考えて見みると。その頃に比べれば、短歌の詩型という器をもう少し俯瞰的に見ることができているのではないかしら(もちろんそれとて自己内の相対的ものであるが)とおもう。が、賞とも無縁のままであるし、烏瞰的にといっても仙人の域にはとうてい至っていない。

 

具体物としての器の話題にかえってみると、器の容量はかわらないから中身を捨てなさいというのは、器の容量をわかっているひとができることだ。つまりは、はじめから器の容量や特性を知っているならば捨てることも残すことできちゃうというわけだ。だから、繰り返しになるけれど、そんなことを為せるのは器を手に持てたり、器を高いところから見ることができたり、使いたいときにつかうことができたりする立場になければ叶わない。器もんだい。

 

じぶんのことにまたあらためてこの発想を照り返してみると、どうだ。じぶんのことや特性がそれなりにわかってないと、器をからにしたり、中身を整理したりはできない。つまるところ、じぶんのことを理解するという甚だ難しく困難をきわめる作業をしつづていくのが人生ということか。それなら、まあこれは捨ててもよかろうとか、価値観を大転換しないと器が、じぶんがつぶれる、と察知することができる段階とは、それなりの修練や経験や年齢を重ねた相当に仙人の域に達している場合となろう。仙人かー。

 

だから、当面そういうことがわからない段階においては、つまり仙人には至らない段階にあっては、じぶんの器に何がのりやすいのか、どれくらいのせられるのか、そんなことをやってみるのを繰り返し繰り返しやる以外にはないのではなかろうか。

 

仙人にならないと、器のサイズはかわらなちから、捨てて良いものも捨てちゃいけないものも判断しにくい状況に、いつもぼく(たち)はいる。まあ逆にいえば、判断基準がわかっていることが仙人の域に至るということになる。

 

とはいえ、仙人には至らなくとも、器の容量はかわらなくても、あれこれやってみると、載せるものの質がかわったり、器の形がわかったりして、のせやすくいれやすく、あるいは、はじきやすくなっていく段階がくるのではないかなとおもうのだ。これは、短歌の定型や口語へのとりくみと同じアナロジーで。

 

大きくて美しい民藝のうつわなどにちょこんと美味しいものがのっかっている図を夢想しながら、ぼくはぼくに、あるいは短歌という詩型に異物をのせようとすることをやめないようにしたいとおもう。仙人じゃないんだし、いや、仙人にはなれそうもないのだから。そんな器ではないのだから。

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