みずたまり

はしりながらねむれ

Ruth sensei

朝8時30分からESLクラスがあった。ウィスコンシン大学の博士課程で教育学を研究しているRuthさんがぼくたちの先生だ。彼女はカンザス出身なのだそうだ。彼女は茨城に何年か住んでいたことがあるそうで日本語もかなりできるようだ。だが、ESLではひと言も日本語はしゃべらない。日本文学や日本のマイノリティにのこともかなり勉強なさっていることがすぐにわかった。高校生に短歌を教えるということを構想しているなかで、いわゆる三十一文字(みそひともじ)はどのように説明すればよいのか質問のメールを送ってみた。とても丁寧な返事が届き、近く教えてくださるそうだ。ぼくは、すこし自分のこともそのメールに書いた。もちろん英語だからたいしたことは書けないし、書いたことが通じていないかもしれない。けれど、彼女の返信メールには彼女が今アメリカの競争社会(含む学校)をアフリカンアメリカンはどのように感じ、生活していたのかを研究していると記されていた。彼女はカンザスの50人のアフリカンアメリカンにインタビューをし、そのことを社会構成主義(social construction)的にとらえようとなさっている。少なからずぼくの興味と通じるところがある。ルース先生には英語だけでなく社会構成主義の理論的な教授もうけてみたい。学びということには限りがないのだと彼女をみていて感じる。学びとは何なのだろうか。学ぶことは人をどのように更新させるのだろうか。