みずたまり

はしりながらねむれ

受け身

モルツ@天王山京都西山水系 今日も会議。会議の時は会議の内容のことを考える時間であることは言うまでもない。でも、発言する人の顔をみていたらなぜか急に短歌のフレーズがふってくることがある。メモしそびれるとそういうものは何事もなかったように思い出せない。今日のフレーズは思い出せないことになってしまった。ちくしょう。なぜメモをとらなかったかというと、その発言者を見ていたら受け身ということについての思索が勝手にすすんだからだ。ほんとに唐突なのだが、テレビは受動的、読書は能動的なのかということを考えてしまっていた。なぜあの人を見ていたらそんなことを思ったのかはわからないのだが。受け身であるとはどういうことなのだろうか。何事もやらされるのような受け身ではなくて自らすすんで能動的にやらなくちゃいけない、などと言ったりする。あれこれ考えるとまとまらないのでたとえばテレビのことについて考えてみる。すると、当然のことなのだが、自らすすんでテレビを見ることもある。そういう態度的な側面だけではなくて、背景としてテレビの映像や音声が視覚や聴覚に刺激をあたえること(これは受け身かも)もあれば、英語でしゃべらナイトを見ていて「なんて言っているのだろう」と自らそれを聞き取ろう理解しようとすることもある。こんなときの刺激の受け取り方は受け身的と言えるのか。オリンピックのニュースを新聞を読むことによって受け取るということとテレビを見ることによって受け取るということに(質的な差異が多少はあるとしても)能動的か受動的かという差異はないのではないか。果たして、受け取るということに受動と能動というカテゴリーが当てはまりにくいのではないかと思えてくる。むしろ、積極的か否か、主体的か否か…。全く持って生産的でもないことをふと考えさせてくれた会議のあの発言者を見ていたらこんなことを考えてしまうのは受け身で会議に出ているからなのか。とほほ。受け身か受け身でないというのはいったいどういう違いがあるのか。