みずたまり

走りながら睡れ

みずたまり第52回例会

 みずたまり第52回例会の会場は白兎会館。県民文化会館の会議室もパレットとっとりもとれなかったと会場係のいのさん。この二つがだめなときはいつも白兎会館。白兎会館がいやなのではなくて、二つと比べるとぐんと料金が上がってしまうのが気になる。というみずたまりは会費2000円。池本一郎先生への謝礼(スズメのナミダ)とお茶・お菓子代と会場費となるもの。だから、民間施設の実施はみずたまり資本を根底からゆるがしてしまうのだ。さて、前置きが長くなった。いつも通り、池本一郎先生の3選。
 ◎行くなよと玄関先でぐずる子に「いってきます」と朝刊渡す 《貴》
 ○何かしら結果は出ます脱ぎ捨てた運動靴にひとつのカタチ 《落》
 ○白菜をくるんだときになぜ君がおくやみ欄の藤原巧(35) 《荒暮》
 「行くなよ」の歌。今回の題詠は「新聞」。「新聞をつかってこんな歌を詠んだとのは未だ嘗てない」と池本先生は大絶賛。子どもがぐずっているということからここまではいわば私的な親子関係である。そこに「朝刊」を渡す=公的な関係を持ち込むことによって子どもに社会的関係を教えている。というのが池本先生の解釈。なるほどそうかといちどう納得かというと…。「朝刊」が公的存在または社会的関係の象徴として認知できるのか。メンバーの間ではここに揺れがあった。しかしそれにしても、池本先生の解釈でならこの歌はいきる。「行っちゃだめ玄関先のだだっ子に朝刊渡す「行ってきます」と」と推敲できるとのこと。
 「何かしら」の歌。この歌はいのさんが極選にとっていた。議論では「結果」という言葉と「脱ぎ捨てた運動靴にひとつのカタチ」が果たして合致するのかというところが主に問題になった。池本先生はそれがよいのだという主張であった。「何かしら結果はでます」→「何にせよ結果は出よう」などに変更可能とは先生。
 「白菜を」の歌。池本先生を入れて計4名の選(互選最多)が入ったぼくの歌。高校1年生の時の同級生の藤原巧くんが少し前に無くなった。高校時代、彼は陸上部でぼくはバスケ部だった。部室が近かったこともあり、クラスが変わっても仲良くしていたが卒業後は音信不通になっていた。その彼をたまたまおくやみ欄に発見した。池本先生は「白菜をくるんだその新聞のお悔やみ欄に自分が知っている人がたまたまのっているというのは作為が見えすぎる」から「寝ころんでみているときにああ君かおくやみ欄の巧(30)」とすればすっきりすると。前半部についてはなるほどそうかもしれないが、「藤原巧(35)」をぼくははずせないなぁと思う。文芸としての作品である前に彼への鎮魂?としての歌であるから。あらら、自分のことばかり長く書いてしまった。
 みずたまりは4月に係改選。みずたまりますます盛ん。