みずたまり

はしりながらねむれ

写実-鋭い観察が生み出す優しさ-

 短歌のある生活というのはなかなか程遠い。ひと工夫して最近は湯船につかったまま短歌の雑誌やみずたまり予習編を読んでいる。角川『短歌』4月号は「木俣修」の特集であった。その一本目の論文は吉川宏志さんが書いたものだった。興味深く読んだ。吉川さんは木俣短歌の「視線」の特徴を洗い出していく。

 

 「一首一首にあらわれた物の見方も、じつに鋭敏である」、「その視線が他者に向けられたときには、ひやりとするような感触もあらわれてくる」、「〈見る歌〉は傍観的になったり、ニヒリズムにつながったりしやすいものだが、彼の歌集を読んでいくと、あまりそんな感じはしない」、「鋭くて優しい観察眼が最もよくあらわれているのは、子供を詠んだ歌である」、「子供の目から見られた自分を詠んでいる歌もしばしばあらわれている」、「注意して読んでいくと、ほかにも他者から見られた自分を詠んでいる歌は多いのである」、「特に老いた自分の姿を人に見られるのを寂しむ歌がよく目につく」

 これらは木俣修の歌を引用したうえでの分析である。ここでは歌は省略するが。そうして、吉川さんは次のようにまとめている。ちょっと長いが記録のためにも引用しておく。

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 平成十八年版の「短歌年鑑」(角川書店)に掲載された佐佐木幸綱の「〈われ〉と〈私〉をめぐって」は刺激的な評論であったが、その中の、次の一節が印象深かった。

 《今、私たちの興味が向くのは見られる〈私〉であるようだ。いつのまにか、見る〈私〉の時代から、見られる〈私〉の時代に移りはじめたようである。「写生」は見る〈私〉の時代のものだ。「われ思う故にわれあり」の時代が過ぎて、われわれは見られる自分を基軸に、〈私〉をとらえざるをえなくなってしまったのか。》

 なるほどと思わされる指摘である。現代は相手の反応を見ながら自分を変えていく戦略に優れていないと、すぐに取り残されてしまう時代である(テレビの芸能人や政治家などを見ていればよくわかる)。しかし、木俣修の歌集を読んでいると、見る〈私〉と見られる〈私〉とが自然に共存していて、人間像としての美しさが感じられる。このよな近代的な〈私〉のあり方はもう古いのであろうか。いや、私はこのような作品の持つくっきりとしたリアリティーこそが今でも大切なものであるように思われる。過去の時代の〈私〉として、単純に切り捨てることはできないだろう。たしかに現在、〈私〉は他者との関係の中でしか成立しないのだという、ポストモダン的な〈私〉の見方は一定の説得力を持つ。けれども〈私〉とはそんなに受身的な形でしか表現できないものであろうか。〈私〉は、他者との関係がなければ存在できない。しかし、その関係をつくりだすのも〈私〉なのである。家族や周囲の人々とどのように生きるかを決定するのは〈私〉なのであり、そこに単なる受身ではない能動的な自己が立ち現れる。見ることと見られることは本来、切り離されるものではなく、一体のものである。そうであるから、木俣修は子供たちをよく観察するのと同時に、子供の目から見られた自分を、楽しみながら歌に詠んだのである。「見る時代から見られる時代へ」という問題の立て方には危うさがあって、むしろ、見ることと見られることを切り離してしまう現代のあり方に対して批評意識を持つべきなのではないだろうか。たとえばテレビの映像を見るときのように、一方的に見る側に回ることが可能であることが、見る/見られるの分離を生み出しているように思える。鋭く対象を見ることが、優しさを生み出すこと。これこそが〈写実短歌〉の持っていた本来の滋味であったはずなのである。(吉川宏志「鋭い観察が生み出す優しさ」『短歌』角川書店2006年4月号P.P.116-117

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 細かいことを言えば、自分と他者の関係を「受身」「能動」でもって捉えることには賛同しかねるところもあるが、「見る時代から見られる時代へ」というようなキャッチーな二分法的佐佐木論に対する批判をまずは大いに支持したい。そして、それにもまして、吉川さんの「写実」に対する認識に学びたいと思った。