みずたまり

はしりながらねむれ

さたろうの時間

葉さくらひさしぶりに家でモルツをのんでいる。
ひととき喉の痛みや咳に苦しんでいたので、ビールが飲めるよろこびと、モルツの薫り高き味わいをたのしんでいる。

何もせず居ればときのまみづからの影のごとくに寂しさきざす
身のおきど心のおきどなき吾の半日は過ぐかかる半日
佐太郎『形影』(1969)

ながくっていたヘッドセットのプラグインするところが切れてしまった。
ながくつかっていたのでしかたがないのだが、
ながくつかっていたので愛着のようなものがあり、残念である。

「メジャメント」運動の旗印?ソーンダイクのことばに「if a thing exists, it exists in some amount , if it exists in some amount, it can be measured」。ある物が存在するとすれば量として存在する。量として存在するならば測定できる。
これに対して、バクリーやデューイが反論にまわった。1920年代のことである。デューイは教育とは可変するもの変革する中にまさにあるのだということを主張した。メジャメントが質を軽視していることも。そうしたメジャメント運動の思想的批判がある意味では、タイラーの「エバリューション」がうまれたのである1930年代。

時間と孤独。