みずたまり

はしりながらねむれ

二十世紀梨と砂丘ラッキョウ

スミレビール佐藤佐太郎の晩年の歌集『星宿』1983に二十世紀梨の歌がある。
梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへそのうちにあり (「樟枯葉」)
読まれたのは1979年だから、世紀が変わるというようなミレニアムの感じはなかったころである。その頃に、果実の名前に自分の余生の有限を見ている。
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『短歌研究』2010年11月号にある高野公彦「近江の人」の一連にまた二十世紀梨の歌がある。
鳥取の二十世紀は生きのびてわが手に載りぬみづみづと重く
佐太郎が余生をおもっていたのとは違い、こちらは二十世紀梨のみずみずしさをしっかりと受け止めている。だがだからと言って死がないのかと言えば、一連の流れからもこのみずみずしさはむしろ死を感じさせるものでもある。
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なんだか強引だが、鳥取つながりで。
『歌壇』2011年1月号。栗木京子「ラッキョウの花」。ラッキョウをつくっているのは鳥取だけではないのだが、歌から判断するに、やはり鳥取であろうと思う。
ラッキョウのむらさきの花咲くころに砂丘訪(と)ひたし帽子かぶりて
この一連はすごく起伏にとんでいて、砂丘のラッキョウは突如出てくる感じ。「その人は~」という二首もなかなか奥が深い。