みずたまり

はしりながらねむれ

転勤

hanaコンバース家からのメイルによると、今年のウィスコンシン(マディソン)はとてもあたたかくて、もうサクランボの花が咲いているのだそうだ。日本で言えば桜である。ま、桜もサクランボも、チェリーブラッサムというくらいだから、ざっくりえいばサクランボである。同じ感覚で春をおもうわけだ。メイルには、温かいのはいいことなんだけれど、地球の温暖化をおもうとよろこんでばかりはいられないと書いてあった。こういうのがいかにもランディーとキャシーらしくて、うれしくなる。マディソンはもう春なんだ。

ぼくはいよいよ転勤することになった!あらたまの年の三年を待ちわびて、という感じである。現場からはなれていた3年をおもうと、むろんそれがすべて無駄だったわけではないが、こびりついた錆を早くおとさねばという焦る気持ちになってしまう。あせらずいこう!などと言いきかせてみてもあせるものはあせるのである。ま、それでいいか。もちろんよろこんでいる♪ そして、送別会もつづく。

いつにもまして、じぶんのために書いておこうか。生き方には大きく二種類くらいある(乱暴すぎるが)。ひとつは選択できる範囲(幅)と選択を主張する権利があるときにはその範囲で自己の意志を表明するもの。もうひとつは、選択できる範囲と選択を主張する権利があるけれどその意志を現状にまかせるあるいは表明しないやりかたである。なんでもかんでも選べるわけではなし、そもそもそのときよいとおもったやり方が、「おまえはがきだな」とか「かしこいやりかたじゃない」とおもわれることもあるだろう。じぶんでもそういう意見があることがわかっていることもあるだろう。こういう選択の場面になると、性といっていいのか、意地といっていいのか、とかくそういうものが顔をだしたがるときがあって、ぼくはそれをできるかぎり大切にしたいとおもってきた。いまもおもっている。じぶんの処遇がおおきく変わる機会があったとか、そうなる可能性があったのに、ではなく、いまじぶんが何者であるのか、何者であろうとしているのか、そしてそのためにどのような選択をしたのかということをわすれないでいたい。そしてその選択に対して、今後仮になにかの事情で考え方に変化があったとして、偽りのないようにいまや近い将来の時間をすごしていきたい。

多様性というのは、批評性なのか。多様であるということはすでに批評性を内包しているのか。なんだかそんなことを考えつつ、花粉症になやまされつつ。今日はすごした。