みずたまり

はしりながらねむれ

みずたまり第112回歌会

ひまわり2どうしようもなく暑い。そんな8月4日(土)の午後はみずたまり。先月が111回のぞろめ。今回は112回。つぎに気になるのは123回かな。さて、参加者は8名。なかなかいい歌が多くて、たのしい歌会。その後は、件のビザールがぼくらよりもはやい予約がはいっていて断念。2時間飲み放題込みの3000円以下のところで飲む。空調が思わしくなく、料理の味もおもわしくなく。。。と、いいながら、11日は浜坂で第一回だらず歌会(夜通し)の企画が決まり、忘年歌会は昨年と同じように大山Gビールがらみでいくことがきまった。みずたまりの勢いすごい!

作品本意ということばのあやうさをぼくは常々おもっている。ま、まじめなことをここに書いてもしょうがないが。バルトのauthor's deathをもちだすまでもないが、短歌において作品本意というとき、それは、作者のコンテクストを介さずにということになることが多いと思う。でも実際そういうのも読みの歴史から言えば、あるいは、自分の経験からいっても、かなりバイアスがかかっている。むしろさまざまなコンテクストのなかで、その折々に読みがたちあがってくるというそういう読みを大切にすべきではないのか。例えば、雑誌の掲載で読むのと歌集で読むのと歌会で読むというコンテクストだけを考えてもみても、作品本意という言葉を一神教的で絶対正義的に用いることをゆさぶるように思う。作品本意という言葉に純粋性や正当性を託しているかのように発言するとき、そこに疑わなさがよこたわってしまうのではないだろうか。 もちろん、ことは、簡単ではないのだが。

昨日8月5日(日)は、自主上映映画「イエロー・ケーキ」を観た。観ながら、見田宗介の他者論ばかり思った。顔をみることができる、手の届く、身近な他者と、まったくしらない見知らぬ他者と。原発原発によってその近く(といってもこれもかなり大規模だが)のひとびとが不幸になるだけではない。ウランを採掘するその原発の入口からすでにひとびとを不幸にしているのだと、この映画は言っていた。
今日は、8月6日である。できることをやるしかない。