みずたまり

走りながら睡れ

日付としては3月11日になった。いまあの日、午後3時17分に届いた友人からのメイルを読み直している。そうして考えていると、この日になってあらためてここに何かを書くことがひどく軽薄な気がする。毎日がむしろ震災であるはずなのだから。

日付としては3月10日の朝日新聞の「ひと」欄に大口玲子さんが載っていた。単純とかわかりやすさがあのくらいの短い文章には求められるし、読者だって、短歌に興味をもっているひとばかりじゃないことはわかっている。けれど。むしろわかりやすくするときに捨象されたものこそがそのものではないかとおもった。記事がわるいとかそういうことでは、決してなくて。

内田樹村上春樹(こうなれべるとどちらも樹だ)が世界レベルで受け入れられ共感されることを論じているときに、どうしてわたしだけしかしらない物語と同じことがここに書かれているのかと読者がおもうのはどうしてかというようなことを書いていた(と思う)。評論家は、例えば、中国の若者に村上春樹が受けるのは「孤独感・喪失感」が共鳴するのだと言うけれど実はそうじゃない。もともと中国の(例えばのはなしですよ)若者に「孤独感・喪失感」というものが心の中にあって、それにぴったり合致するものを村上春樹が用意しているのではなく、いや、そういう既視感ではないだだと言っていた。じゃあなにか、それは、村上春樹の作品には、もともと読者になかったものをその読者がもともともっていたように記憶を再構築させて既視感にするような強い力があるのだと。言い換えるならば、作品を読むことによって、読者にはもともとなかったものを、あたかも既にもっていたのに確固たる名付けが為されぬままであったもののように記憶を書き換え、その上で、ぼく固有の物語がここに書かれているのだ!と思わせる二段階の作用をうけてしまっているのだと(かなりざっくりの記憶による記載)。

あるものをないように感じることを日常と言うのであろうか。
ないものをあるように感じることを日常と言うのであろうか。

ぼくたちじしんが星であるのならば、この星をまわしつづけるものはなんなのだろうか。