みずたまり

走りながら睡れ

なんでもなくて

目覚めてふと考えることがいちばん重要なことなのだろうか。という疑問をもったひとがいた。
ちょっとしたときにふと思うことがいちばんに思うことなのだとろうか。ということをたずねたひとがいた。
なにかをしているときにふと感じることはただひとりのことなのでやはりひとりだ。ということを言ったひとがいた。

短歌という詩型においては散文や詩や俳句に較べて客観性や相対性がナチュラルに排除されやすいように思う。短歌の作り手は目の前の現実や一瞬の感情をかけがえもなく貴いと思い込みがちで、そのような主観の絶対化が、結果的に天然めいたユーモアに結びつくことも少なくない。(穂村弘「短歌の笑い」『びーぐる』19号2013)

伝達を目的としていない文学のばあいではないシーンを考える。ひとがある感じや感情や思いを伝えるあるいは伝わるばあいはどうだろうか。例えば、その思いや感じ(たいせつにしているとか深くひびいてきたとか)ことが伝わらないと、あるいは、伝えようとしなければ、たいせつなんだから/深くひびいているのだから、その相手に伝えなくても自分のなかだけで完結しさえすればいいという主観の絶対化=傲慢さにおちいるとおもうのだ。笑いではすまされないのは、それが日常言語あるいは、日常性という文脈にあるからだ。主観の絶対化=傲慢=他者の排除ともいえそうだ、あくまでも文学ではなくて日常では、ということだが。