みずたまり

はしりながらねむれ

『杉原一司・塚本邦雄 往復書簡』の刊行に寄せて

地元「日本海新聞」2022年7月10日付に掲載された『杉原一司・塚本邦雄 往復書簡』の刊行(鳥取大学他)に寄せてという題で、地元でもほとんど知られていない(悲しい!)杉原一司について書きました。掲載は紙幅の都合で700文字程度になりました。この往復書簡のコーディネーターである安藤隆一さんから短歌をやっていない地元の人にすこしでも杉原一司を知ってもらえるように書いてほしいということでした。700字に削る前のすこしだけ長めの原稿をここに掲載してみます。鳥取のひとがめぐりめぐって読んでくださったらうれしいです。もちろん、鳥取のひとでなくても。

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 鳥取の人にとって鳥取出身の文学関係者と言われたら、まず、尾崎放哉や尾崎翠を思い浮かべるのではないだろうか。それから、桜庭一樹あたりではないか。

 例えば、鳥取県立図書館が出している「郷土出身文学者シリーズ」というブックレット全13巻には残念なことだが、短歌=歌人は含まれていない。

 鳥取県八頭郡丹比村(現鳥取県八頭町南)に生まれ、24年間だけのこの世を駆け抜けた杉原一司という歌人がいた(1926年生まれ)。一司は戦後の混沌とした泥のような歌壇に気高く咲く真っ白な花のように圧倒的な才能をもって突如現れた。

 第二次大戦中に多くの歌人が戦争を翼賛する作品を作り、人々をその気にさせ、文学のあるべき姿とは逆に現実に迎合した。敗戦の後、短歌という文学ジャンルがそもそも二級の文学だから戦争に加担するのだと激しくその責任を問われ、批判された(第二芸術論)。杉原一司は、この嵐のような短歌批判の中、鳥取にいながら世界の文学論を摂取し、その詩的可能性を語り、作品と理論で短歌を内側から挑発しようとした。こんな作品を彼は作っていた。

〈黒シヤツをまとひて合歓の花かげに誰待つとなく一日くらす〉

〈きりの夜の廣場へつづく石きだをひかれてくだるみどりの牝鹿〉

 ところが、歌壇史に名を残す歌人がふるさと鳥取で語り継がれることはなく、ほとんど誰も杉原一司を知らない。なんということか。なぜこんなことになったのか。それは、杉原一司が24歳で他界し、作品も文章もほとんど残っていない上にその作品も理論もひどく難解だからであろう。手に取ることができるものがないから分からない、分からないから語り継がれない。骨董屋の奥の奥にこそ本物があるように、良くも悪くも、杉原一司は短歌が趣味という鳥取の人の前にさえほとんど現れない代物になってしまっていた。

 この度、鳥取大学地域学部の岡村知子氏・田中仁氏・松本陽子氏と一司のご子息・杉原ほさき氏そしてコーディネーターの安藤隆一氏の尽力で『杉原一司・塚本邦雄 往復書簡』が刊行された。現代詩歌文学館が所蔵する101通の杉原一司から塚本邦雄宛の書簡と杉原ほさき氏所蔵の塚本邦雄から一司への書簡38通などが写真と翻刻を備えてまとめられた。これは杉原一司研究、塚本邦雄研究、戦後日本の歌壇史研究にとって、長く待ち望まれた第一級の資料と言える。そしてもちろん、郷土の文学研究には格別のインパクトを持って受け取られるべきものだ。

 

 ところで、杉原一司を語るとき絶対に外せない二人の大物歌人がいる。片田舎に住む若者を全国の歌壇に押し上げたのがその一人、

〈春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ〉

など名歌を残し、戦争末期には杉原家へ家族を疎開させた前川佐美雄である。

 また一人は戦後の前衛短歌運動の旗手であり一司の亡き後もずっと唯一無二の信頼できる友人であるといい続けた、現代短歌の巨人・塚本邦雄。以下の歌などは高校の教科書に掲載されることもあり、覚えている方もいるだろう。

〈革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ〉

〈馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ〉

これらの歌は、誤解を恐れずにいえば、一司の影響を受けた塚本邦雄の代表歌と言ってもよいだろう。

 

 前川佐美雄が主宰する歌誌の中で、まだ何者でもなかったこの二人はお互いを意識するようになる。

 

■過分のお言葉を有難く存じます。実は最近特に貴兄のお作を注目してゐました。(中略)僕等は第一の塚本であり、第一の杉原でありたいものです(昭和23年2月21日:杉原より)。

一司が地元の仲間と発行している「花軸」を塚本に送った返事には

■『花軸』熟読いたしました。啓發されるところ多く特に「韻律」及び「批評性」に関する貴兄の言は今の僕にするどくひゞくもおのがありました(昭23年2月26日:塚本より)。

■つまらない作品ですが少々書きつけて見ました。四月一日からのものです。目をとほしていたゞければ幸甚 きびしい批評がいたゞければ、それに越したことはありません。(昭23年4月11日:杉原より)

 

このように塚本が自作17首を含めた便箋7枚の手紙を送ると、一司は便箋14枚に渡って作品の批評や論を展開し応じている。そこでは、五七五七七の歌の「五七」と「五七七」、「五七五」と「七七」のように継ぎ目がある作りではなく、五七五七七が連想的な発想によって「レアリテと感覚乃至抒情とのコン融」するような「方向をやつてみられたら如何」と塚本に方法的な方向性を促している。

 このようなごく初期のやり取りから、塚本が短歌の方向性において杉原一司を頼り、その言葉に触れたがっていると感じられる。その後、二人は『メトード』という小さいながらも先鋭的な発行物を作り、歌壇を大いに挑発していく。『往復書簡』にはこの『メトード』を創刊するためのやりとりや当時の歌壇への批判精神などを実にリアルに臨場感をもって読み取ることができる。

 

 鳥取に杉原一司という若く才能あふれる歌人がいた。現状に満足せず、歌壇の何歩も先を見て短歌という詩の可能性をひらこうとした歌人がいた。

 

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