みずたまり

走りながら睡れ

明日はジェイソンであるという本日は人事異動の内示日。人事というのはわからぬもの。春からまたちがうところへいくことになった。
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「書くこと、すなわち極限=末端に触れること。つまりは、身体を意味したり、身体に意味させたりするのではなく、どのようにして身体に触れるべきか。次のように慌てて答えたく思うだろう、つまり、そんなことは不可能であって、身体というのは内部に記載=記入できないのだと、またあるいは、エクリチュールに直に接した身体を模倣するかなぞる(踊る、瀉血する)ことが大事なのだと。それは止むを得ない回答かもしれない―だが即座の陳腐な不十分なものである。いずれの回答も結局のところ、直接的ないし間接的に、身体を不在もしくは現前として意味すると言っているのだ。書くことは意味することではない。問いは、どのようにして身体に触れるかであった。この「どのようにして」に対する回答は、技術的な問いに対するようなものでは恐らくありえない。つまり、言わねばならないことは、このこと―身体に触れること、身体を触れること、最終的には触れること―はいつであれエクリチュールの中に到来しているということである。(ジャン=リュック・ナンシー『共同―体(コルプス)』)」
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「理論はマスターしたいという気を起こさせる。理論を読めば、自分のまわりの現象をきちんと理解するための概念が手に入るように思える。しかし、理論はマスターなどできるものではない。なぜなら、必ずもっと知るべきことが出てくるからだけではなく、理論特有のきつい点ではあるが、理論を学ぶとはそこから出てくる結果と、その拠り所となる前提に疑問をぶつけることでもあるからだ。理論は、自分が知っているつもりになっていることを、あれこれの前提や仮定に異議を唱えて、つき崩す性質をもっている。だから、理論のもたらす結果は予測がつかない。勉強したからと言って、理論のマスターにはなれないが、逆に前と同じ位置にとどまっていることもできなくなる。(ジョナサン・カラー『文学理論』)」
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「われわれと血を同じくする生きもののなかで、鳥はもっとも熱い血を燃やして生きるもの。日の尽きる所まで、特異な運命を引いて行く。(サン=ジョン・ペルス『鳥』)」