みずたまり

はしりながらねむれ

みなみのうお座

みなみのうお座夏の終わりくらいから夜歩いている。もちろん不定期なのだが、なかなか楽しくなってきた。少し前から歩くのになれてきて夜空が気になりはじめている。そういえばStarWalkをiPhoneに入れていたと、2年経ってようやく実用化しているこのごろ。はくちょう座カシオペア座アンドロメダ座。おおくま座。やまねこ座。ふたご座。オリオン座。などなどどれもうつくしくてくらくらする。 そうしていると。みなみのうお座もある。みなみのうお座には思い入れがある。

ぼくがはじめて書いた、短歌の文章らしい文章というのは、松村正直『やさしい鮫』の書評であった。それから、酒の歌について小文を書かせてもらったこともあった。そして、評論というほどでもないが、とにかくはじめて評論らしいものを書く機会をもらったときに、松平修文について書こうか小中英之にしようか迷った果てに、小中英之ついて書いた。そこにこんなふうなことを書いていた。

水欲りてみなみの魚座(うおざ)音たてずあらはるる夜のレンズをみがく

小中英之『わがからんどりえ』角川書店1979

きみ喪くてならぶ刻なしそれからのひとさし指は天狼を刺す
 

「みなみの魚座」は、秋の夜にみずがめ座の南に見える小さな星座。星座絵によると、「秋星」とも呼ばれる一等星のフォーマルハウストが魚の口に位置し、あたか もみずがめ座からの水がこの魚の口へ注いでいるかのように魚はお腹を上にして逆さまになって描かれている。だから、「水欲りてみなみの魚座」は星座絵その ままである。にもかかわらず、ライズする魚や飛沫まで感じてしまうのは、「音たてずあらはるる夜」の動詞の効果だろう。もちろん「レンズをみがく」という 動作の付加も実に巧い。
ところで私は、二首目にはおおいに魅力を感じながらも、どこか読みの決まらなさを覚えていた。『わがからんどりえ』に唯一の「きみ」という言葉の「きみ」を無理に特定する必要はないのだが、「ならぶ刻」は、きみが喪くなったので肩をならべるような時間がなくなったとも、きみが喪くなったのできみと一緒にいた 頃のような(充実した)時間をもち得なくなったとも読める。もちろん、一つに決めるのがよいわけでもないのかもしれない。もっともそれ以上に、「ひとさし指は天狼を刺す」がはっきりしない。「天狼」とはおおいぬ座のα星シリウスのことであろう。シリウスと言えば真冬を思うが、この歌は、季節としては秋を歌う「天狼を刺す」一連にならんでいる。シリウスは秋にも目にすることはできる(深夜~明け方)ので事実としては問題ない。問題はないのだが、それでもなお「刺す」がひっかかる。みずからの「ひとさし指」を鋭利なものとして表現しているという程度に理解しておけばよいのか。(『塔』2009年1月号)