6階からの風景
そんなわけで、ちいさなちいさな原稿などもずいぶんと締め切りをすぎての提出となった。われながらなさけない。to do listとかcan do listとかつくらないとうごけないのかもしれない。
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ここのところは、初任のころ以来の時間外のお宅訪問がかなりつづいている。これという手応えもなくつづけるしかないのかもしれない。きっとぼくたちの仕事はそういうものだろう。今年はノーリアンズブラックも蒔く時機を逸したままだ。
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2005年から住んでいるいまのマンションタイプの賃貸とももうすぐ別れることになった。ふとみる景色がこの8年間ずっと(いっときはウィスコンシンにいたが)この6階のベランダや廊下からであったことに改めてはなれていくことのおおきさを思う。
なんでもなくて
目覚めてふと考えることがいちばん重要なことなのだろうか。という疑問をもったひとがいた。
ちょっとしたときにふと思うことがいちばんに思うことなのだとろうか。ということをたずねたひとがいた。
なにかをしているときにふと感じることはただひとりのことなのでやはりひとりだ。ということを言ったひとがいた。
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短歌という詩型においては散文や詩や俳句に較べて客観性や相対性がナチュラルに排除されやすいように思う。短歌の作り手は目の前の現実や一瞬の感情をかけがえもなく貴いと思い込みがちで、そのような主観の絶対化が、結果的に天然めいたユーモアに結びつくことも少なくない。(穂村弘「短歌の笑い」『びーぐる』19号2013)
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伝達を目的としていない文学のばあいではないシーンを考える。ひとがある感じや感情や思いを伝えるあるいは伝わるばあいはどうだろうか。例えば、その思いや感じ(たいせつにしているとか深くひびいてきたとか)ことが伝わらないと、あるいは、伝えようとしなければ、たいせつなんだから/深くひびいているのだから、その相手に伝えなくても自分のなかだけで完結しさえすればいいという主観の絶対化=傲慢さにおちいるとおもうのだ。笑いではすまされないのは、それが日常言語あるいは、日常性という文脈にあるからだ。主観の絶対化=傲慢=他者の排除ともいえそうだ、あくまでも文学ではなくて日常では、ということだが。
階段
冬の時期と花粉症の時期には外を走ることができず、また堕落した生活をしていたこともあってふとってしまっております。そんなわけで花粉症のうすらいだ4月下旬からジョギング&ウォーキングをふたたびはじめました。まだまだ歩くこと抜けずそのため距離を稼ぐためにいろいろなコースを試してみております。それで、今日は、コースというか市民体育館の前の階段を5往復することも加えてみましたのでした。
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鳥取市民体育館といえば、あだち充「タッチ」の最終回で出てくる大切なシーンの大切な場所です。インターハイに出場するみなみがやってきていた鳥取市立体育館に達也が応援にやってきて思いを告げます。その河川敷というかもぼくのコースにはいっております。はい。
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川というのは水のなかがれというかまあそういうものだけれど、水のながれが必ずしも川ではないわけで。火というのは東京オリンピックの聖火のように絶やさずに燃え続けさせているのもありますが、一般的には燃料がなくなれば消えるわけであります。 火と水、燃えることと流れること、はなんだか似ている気がします。でも、水は、流れは、すこし違うようにもおもえます。
完全試合未遂と交代
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さて、打たれたあとのなのだけれど。ダルビッシュが笑みをうかべて(そりゃ悔しいだろうに)いて、それに内野の選手たちが寄り集まって、きこえないけれど、「気をおとすなよ」など言っているのがまことにすばらしくうつくしい。さらにおどろくことに、あと1アウトで終わるというところを、たった1つのヒットを打たれただけで、ワシントン監督はダルビッシュを交代させた。なんというすばらしいことだと感心した。あそこでひっぱって完投勝ちというのもあり得ただろうけれど。あそこで交代というのはダルビッシュにとってもチームにとってもよく考えてみると、ひと呼吸おくということもふくめて、最高の采配だったのではないだろうか。選手をおもうというのはこういうことなのだ。