みずたまり

はしりながらねむれ

さようならnifty

1995年1月17日の阪神淡路大震災のとき、ぼくは、神戸市灘区篠原中町1-4-15メゾン六甲403号室に住んでいた(いまもあるのかどうか)。その日は、修士論文の提出日であったため、眠ることなく最後の詰めの作業を行っていた。ちょうど、英語でSumallyを書き上げてプリントアウトしようとしていたくらいだった。その時。

 

それから数日後、大阪市立大学の大学院にいる友人宅に一次避難させてもらった。彼も鳥取出身であったので、ぜひ来てくれと言ってこころよく受け入れてくれた。その彼のところは、ネットをつなげていた。いまは@niftyとなっているが当時はダイヤルアップのNIFTY-serveだった。そこで、飛行機や電車の情報を拾い上げて教えてくれていた。1995年段階では、携帯電話もwebもまだまだ広まってはいなかった。(後にPHSをもったのはそれから約2年後だった)。鳥取にかえったぼくはまず、このダイヤルアップのNIFTY-serveとのプロバイダ契約を行った。1995年4月のことだ。それから今日まで引っ越しを何度かおこなったり、あるいは当時はpowerbookをつかっていたのをときにはwindowsマシンにかえたりしながらまたmacbookにもどったり、あるいは携帯電話をauからソフトバンク、そしてYmobileにかえながら、niftyはずっとかえずにいた。1995年4月から2018年11月まで。その間、ADSLや光、光隼とかこれもまたNTT西日本をつかってきた。

 

今回、つれあいとぼくのソフトバンクとYmobileがソフトバンク光にすると割引があるとか、Ipv6がつかえるとか、そういったもろもろ(niftyでもつかえたが、wifiルーターを買い換える必要があった)を総合して、niftyとの契約を解除することにした。niftyのメールアドレスもいまとなっては、つかっていなかったので、ずべての解除をお願いした。

 

震災のときに友人がNIFTY-serveで情報を拾ってくれなければ、ネットをつなごうという気にもならなかっただろうし、ましてniftyとの縁もなかっただろう。うまくいえないけれど、とても感謝している。そしてどんな理由があるにせよそういった縁をたちきることにもうしわけなさを感じてしまう。

 

とはいえ、すでにソフトバンク光になり、これまでに比べてものすごく通信速度があがっていてそれはそれでよろこんでいる。