みずたまり

はしりながらねむれ

短歌の定義

小池 (略)つまりやすたけさんは、読者にどう読まれるかにはほとんど無関心で、自分が自分とおしゃべりするようなところで歌を作っているので読者がいない。それは現代詩などではよく見かける光景なんだろうが、それがたまたま短歌の形をしているということなのであって、ちょっと短歌とは言いにくい。では何かというと、五七五七七詩というのを考えついたんだけど、これは短歌ではなくて五七五七七詩だと言いたくなるような一連だよね。短歌というのはこういうものとはちょっと違うので、同じ土俵で論じられないというか。短歌といったらやはり作者がいくつぐらいの人で、何をしていて、生活の折々にこういうことがあってということを歌にしていくというのが、すくなくとも近代短歌というものであって、そういうふうに読むじゃないですか、我々はどんな人の歌集も。それが一切手がかりがないままにうっちゃられて、ただ律儀に五七五七七の形はしている。リズムがいいとか悪いとかそういうものではなくて、ただ律儀にルールは守る。ルールを守っていれば短歌でしょうというふうな感じがする。だからとても困るんだなあ。(「短歌研究」10月号146~147頁)

小池 (略)要するに、モノローグというか、読者とのコミュニケーションを最初から拒否してしまっているような歌集がいろいろあって、その典型にして、代表的な歌集じゃないかなというふうに思った。(同147頁)

小池 相聞というのは要するに相手がいるということでしょ。彼女は相手とか自分以外の存在というのには関心がない。自己意識だけで全部世界が成り立っている、だから一首一首はわかるといえばわかるんだけど、根本的にモノローグの世界だから、ひとりごとを喋っている人の傍に行って、話しかけるのは失礼みたいな感じで、どうもうまく読めないですね。(同148頁)

小池 そんなことあり得ないでしょ。どんな想像力も全てはこの肉体から出ていくものだから。肉体が痛んでくれば、想像力も痛むわけで。(同149頁)

小池 そうなんだけど、短歌は年取らないのはダメなんだよ。そういうのは残っていないでしょ。やはり六十歳、七十歳、八十歳まで言ったら、年取っていくんで、そこに成熟というか、変化がみられないというのはぼくは評価しない。(同149頁)