みずたまり

はしりながらねむれ

朝日新聞とっとり歌壇

ぼくは塔短歌会に入っているわけであるが、塔に入会する前に池本一郎さんとの出会いがあった。それは、神戸市灘区篠原中町から鳥取県に帰ってきていた1995年の秋のことであったと思う。

 

そのころ、ぼくはまだ短歌の実作をしたことがなく、大学院を出て、阪神淡路大震災のもろもろをおもいながら、倉吉で若人と過ごしていた。そのなかで若人に短歌を作ろうとけしかけて、それを鳥取県短歌大会?というのに応募したところ、若人のうちの一人が最高賞の知事賞をいただくことになった。ぼくにとっても、受賞する彼女にとってもビギナーズラックそのものといってはいけないか。彼女は才能が讃えられたのだから。いやーすごい。彼女の名前も作品も覚えているけれど、ここに書くのが適当かどうかわからないので書かないが、ひまわりの歌であった。それで、その審査をやっていたのがたしか池本さんだったのだ。果たして、池本さんは突然ふらりとぼくと若人のいるところにやってきた。「ここには短歌の指導者なんていないはずなんだけど、だれが?」と池本さん。「はい!わたしです」とぼく。

 

翌年に、ぼくは倉吉から鳥取へと若人との格闘の場所をうつすのだが、そこでまた、いろいろと飲み歩く日々があり、その中で、ジャズを聴く会というジャズマニアのマスターやゆかいなお仲間と出会うことになった。そういう出会いのなかで、ジャズを聴きながら、短歌もフレージングだよねとか即興性だよねなどとと、今思うとおそろしくなるような会話の果てに、そこにいたAさんとぼくは短歌をやることを決めた。そしてそのプロセスで池本さんに歌の指南をお願いすることにした。というのも、ぼくとAさんの交友関係というかつてのなかに短歌の人というのは池本さんしかなかったからだ。でも池本さんとの関係というのは、先に書いたような押しかけ訪問で挨拶を交わした程度であったのだが。ま、ともかく、そういうことで2000年5月にもういまはなくなってしまったバブル期には繁盛したという名残を残していたラウンジのような飲み屋さん(そこでレアなジャズ音源を聴いていた)の片隅で「みずたまり」をはじめた。いつでも干からびるとか大海へ通じていないというような自虐的な意味を込めて笑いながら、飲みながら、ジャズを聴きながら、短歌を作りはじめた。

 

それから定期的にとはいえないときもあったけれど、酒を飲みながら、自分たちが作った歌をああでもないこうでもないと語りあった。池本さんも飲みながら歌を語る歌会とはいえないような会に毎回付き合ってくださった。これ以上書くとくどくなりそうなので、やめるが、ぼくが短歌と出会う最初期から池本一郎さんはいつもぼくたちを支えてくださった。塔に入るときも、松村正直さんや河野裕子さんや永田和宏さんや多くの京都のひとに顔をつないでくださった。ひろいところ、ひろいところへと、ぼくがすすむようにいつも見守ってくださった。(現在も)

 

そんな池本一郎さんから、突然電話があって(というかいつも突然電話があるし、長い)、自分が長くつとめて、大切にしてきた朝日新聞鳥取版のとっとり歌壇の選者を引き継いでほしいとたのまれた。すごく唐突だったし、そのときの池本さんの声のトーンがいつもと違ってもいたし、歌集もない、大きな賞の受賞もしていない、ぼくがそういうことをしていいのかと思いながら、でもどうしてもそれを引受けなければならない気がした。そうして、そういうわけで4月から朝日新聞とっとり歌壇の池本さんのあとの選者になった。

 

鳥取の多くの方の歌を届けてほしい。人口が減り、教養や文化がないがしろにされるような時代だからこそ、なにか小さな田舎だからできることがあるのではないかと思っている。

 

投稿をお待ちしています♪

 

『杉原一司・塚本邦雄 往復書簡』の刊行に寄せて

地元「日本海新聞」2022年7月10日付に掲載された『杉原一司・塚本邦雄 往復書簡』の刊行(鳥取大学他)に寄せてという題で、地元でもほとんど知られていない(悲しい!)杉原一司について書きました。掲載は紙幅の都合で700文字程度になりました。この往復書簡のコーディネーターである安藤隆一さんから短歌をやっていない地元の人にすこしでも杉原一司を知ってもらえるように書いてほしいということでした。700字に削る前のすこしだけ長めの原稿をここに掲載してみます。鳥取のひとがめぐりめぐって読んでくださったらうれしいです。もちろん、鳥取のひとでなくても。

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 鳥取の人にとって鳥取出身の文学関係者と言われたら、まず、尾崎放哉や尾崎翠を思い浮かべるのではないだろうか。それから、桜庭一樹あたりではないか。

 例えば、鳥取県立図書館が出している「郷土出身文学者シリーズ」というブックレット全13巻には残念なことだが、短歌=歌人は含まれていない。

 鳥取県八頭郡丹比村(現鳥取県八頭町南)に生まれ、24年間だけのこの世を駆け抜けた杉原一司という歌人がいた(1926年生まれ)。一司は戦後の混沌とした泥のような歌壇に気高く咲く真っ白な花のように圧倒的な才能をもって突如現れた。

 第二次大戦中に多くの歌人が戦争を翼賛する作品を作り、人々をその気にさせ、文学のあるべき姿とは逆に現実に迎合した。敗戦の後、短歌という文学ジャンルがそもそも二級の文学だから戦争に加担するのだと激しくその責任を問われ、批判された(第二芸術論)。杉原一司は、この嵐のような短歌批判の中、鳥取にいながら世界の文学論を摂取し、その詩的可能性を語り、作品と理論で短歌を内側から挑発しようとした。こんな作品を彼は作っていた。

〈黒シヤツをまとひて合歓の花かげに誰待つとなく一日くらす〉

〈きりの夜の廣場へつづく石きだをひかれてくだるみどりの牝鹿〉

 ところが、歌壇史に名を残す歌人がふるさと鳥取で語り継がれることはなく、ほとんど誰も杉原一司を知らない。なんということか。なぜこんなことになったのか。それは、杉原一司が24歳で他界し、作品も文章もほとんど残っていない上にその作品も理論もひどく難解だからであろう。手に取ることができるものがないから分からない、分からないから語り継がれない。骨董屋の奥の奥にこそ本物があるように、良くも悪くも、杉原一司は短歌が趣味という鳥取の人の前にさえほとんど現れない代物になってしまっていた。

 この度、鳥取大学地域学部の岡村知子氏・田中仁氏・松本陽子氏と一司のご子息・杉原ほさき氏そしてコーディネーターの安藤隆一氏の尽力で『杉原一司・塚本邦雄 往復書簡』が刊行された。現代詩歌文学館が所蔵する101通の杉原一司から塚本邦雄宛の書簡と杉原ほさき氏所蔵の塚本邦雄から一司への書簡38通などが写真と翻刻を備えてまとめられた。これは杉原一司研究、塚本邦雄研究、戦後日本の歌壇史研究にとって、長く待ち望まれた第一級の資料と言える。そしてもちろん、郷土の文学研究には格別のインパクトを持って受け取られるべきものだ。

 

 ところで、杉原一司を語るとき絶対に外せない二人の大物歌人がいる。片田舎に住む若者を全国の歌壇に押し上げたのがその一人、

〈春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ〉

など名歌を残し、戦争末期には杉原家へ家族を疎開させた前川佐美雄である。

 また一人は戦後の前衛短歌運動の旗手であり一司の亡き後もずっと唯一無二の信頼できる友人であるといい続けた、現代短歌の巨人・塚本邦雄。以下の歌などは高校の教科書に掲載されることもあり、覚えている方もいるだろう。

〈革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ〉

〈馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ〉

これらの歌は、誤解を恐れずにいえば、一司の影響を受けた塚本邦雄の代表歌と言ってもよいだろう。

 

 前川佐美雄が主宰する歌誌の中で、まだ何者でもなかったこの二人はお互いを意識するようになる。

 

■過分のお言葉を有難く存じます。実は最近特に貴兄のお作を注目してゐました。(中略)僕等は第一の塚本であり、第一の杉原でありたいものです(昭和23年2月21日:杉原より)。

一司が地元の仲間と発行している「花軸」を塚本に送った返事には

■『花軸』熟読いたしました。啓發されるところ多く特に「韻律」及び「批評性」に関する貴兄の言は今の僕にするどくひゞくもおのがありました(昭23年2月26日:塚本より)。

■つまらない作品ですが少々書きつけて見ました。四月一日からのものです。目をとほしていたゞければ幸甚 きびしい批評がいたゞければ、それに越したことはありません。(昭23年4月11日:杉原より)

 

このように塚本が自作17首を含めた便箋7枚の手紙を送ると、一司は便箋14枚に渡って作品の批評や論を展開し応じている。そこでは、五七五七七の歌の「五七」と「五七七」、「五七五」と「七七」のように継ぎ目がある作りではなく、五七五七七が連想的な発想によって「レアリテと感覚乃至抒情とのコン融」するような「方向をやつてみられたら如何」と塚本に方法的な方向性を促している。

 このようなごく初期のやり取りから、塚本が短歌の方向性において杉原一司を頼り、その言葉に触れたがっていると感じられる。その後、二人は『メトード』という小さいながらも先鋭的な発行物を作り、歌壇を大いに挑発していく。『往復書簡』にはこの『メトード』を創刊するためのやりとりや当時の歌壇への批判精神などを実にリアルに臨場感をもって読み取ることができる。

 

 鳥取に杉原一司という若く才能あふれる歌人がいた。現状に満足せず、歌壇の何歩も先を見て短歌という詩の可能性をひらこうとした歌人がいた。

 

#短歌 #杉原一司 #塚本邦雄 #前川佐美雄 #往復書簡 #鳥取市 #荻原伸 #塔短歌会

杉原一司中心主義的年譜の改定

このブログに載せている(現代歌人集会春季大会シンポジウム2019年6月28日開催にて配付)「杉原一司中心主義的年譜」は、拙論「杉原一司のめざめー〈メトード〉前夜ー」(『塔』2017年10月号)に掲載したものにほぼ基づいている。そしてこのとき掲載し、またここに載せていた杉原一司の年譜は、竹内道夫『覚書杉原一司ー「花軸」「メトード」を中心に』(富士書店2000)を多くは参考にし、同時に前川佐美雄の歌集や年譜あるいは新聞などによる文献、小林幸子さんによる文章やお話、鳥取大学の岡村知子「杉原一司論(上)ー『メトード』にみる創作方法の模索と実践ー」(『論潮』10号2017)などを参考にしつつ作ったものだった。杉原家のある丹比駅へは何度も訪れたし(例えば、「歌人の最寄駅」『短歌』2018年7月号に丹比駅の写真と少しの文章を書いている)、佐美雄の歌碑を探して佐治の山の中まで行ったりもしたことがある。(同じように佐竹彌生についても)

 

佐竹彌生、杉原一司、そして田中大治郎は同じ鳥取で短歌をやっている者として後々研究したいという人が出てくることを願いつつ、せめてそれなりに資料だけでも整えておきたいと思って、ゆっくり少しずつではあるが動いていた。その過程で、何度か(いずれもアポ無しの突然ではあったが)、杉原家の玄関のベルを鳴らしたことがある。応答があったのは一度だけだった。いろいろな事情はあったのだろうがその時ぼくに何か資料をみせてくれたり、協力的な言葉をくれたりすることはなかった。似たようなことはあって、そのもっと前に郷土史家を訪れたときもやはり同じような対応だった。どうして気持ちが伝わらないのかと、どちらもとても残念に思ったことだった。人だけではなく、杉原一司の地元にある図書館に自分はこのような意図で資料を探しているのだがこれ(ぼくが持っている佐美雄と一司の資料リスト)以外に地元ならではの資料はないだろうかと相談したことがあった。地元だからこそと思ってのことであったが、しばらくして今後そのような質問は県立図書館へお願いします、という言葉がかえってきただけだった。

 

さてそれで、このたび、杉原一司歌集刊行会によって(著者名は杉原一司・杉原令子)『杉原一司歌集』が刊行された。刊行に至るプロセスにもいろいろあったそうだが(ぼくはタッチしていない)、ともかく地元でこのように形に残るものが作られたということがとてもうれしい。ぼくだけではなく鳥取を中心にして一緒に短歌の活動しているすべてのみずたまりあん(みずたまりのメンバー)にとっては特別におおきなよろこびである。なかでも、月刊みずたまりで一司の歌の連載をしていた小林貴文さんや佐竹彌生の歌の連載をしていた小谷奈央さんにあってはこころふるえるほどの励ましになっているだろう(彼と彼女の連載がぼくの励みになっていたように)。歌集に収められた歌は未発表の歌はほぼなく、すでに刊行されている「オレンヂ」「詩歌祭」「花軸」「メトード」に掲載された歌などが再録されている。また、(ぼくにとってはこれが一番の目玉なのだが)杉原家に残る資料から杉原ほさきさんと安藤隆一さんが「杉原一司関係年譜」をお作りになっている。ご家族が重い扉をあけて、このように動かれたわけだ。これは実にうれしい。そこで、この年譜とこれまでぼくが作っていた年譜を比較しここに修正を加えて掲載する。しばらくの間、加筆訂正箇所をピンク色にて示すことで、この度の『杉原一司歌集』の刊行をともによろこびあいたいと思う。ようやく一歩目が刻まれたのだ。うれしい♪

#杉原一司 #塚本邦雄 #鳥取 #丹比 #メトード #みずたまり #荻原伸

 

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2020年4月20日改定

 

さようならnifty

1995年1月17日の阪神淡路大震災のとき、ぼくは、神戸市灘区篠原中町1-4-15メゾン六甲403号室に住んでいた(いまもあるのかどうか)。その日は、修士論文の提出日であったため、眠ることなく最後の詰めの作業を行っていた。ちょうど、英語でSumallyを書き上げてプリントアウトしようとしていたくらいだった。その時。

 

それから数日後、大阪市立大学の大学院にいる友人宅に一次避難させてもらった。彼も鳥取出身であったので、ぜひ来てくれと言ってこころよく受け入れてくれた。その彼のところは、ネットをつなげていた。いまは@niftyとなっているが当時はダイヤルアップのNIFTY-serveだった。そこで、飛行機や電車の情報を拾い上げて教えてくれていた。1995年段階では、携帯電話もwebもまだまだ広まってはいなかった。(後にPHSをもったのはそれから約2年後だった)。鳥取にかえったぼくはまず、このダイヤルアップのNIFTY-serveとのプロバイダ契約を行った。1995年4月のことだ。それから今日まで引っ越しを何度かおこなったり、あるいは当時はpowerbookをつかっていたのをときにはwindowsマシンにかえたりしながらまたmacbookにもどったり、あるいは携帯電話をauからソフトバンク、そしてYmobileにかえながら、niftyはずっとかえずにいた。1995年4月から2018年11月まで。その間、ADSLや光、光隼とかこれもまたNTT西日本をつかってきた。

 

今回、つれあいとぼくのソフトバンクとYmobileがソフトバンク光にすると割引があるとか、Ipv6がつかえるとか、そういったもろもろ(niftyでもつかえたが、wifiルーターを買い換える必要があった)を総合して、niftyとの契約を解除することにした。niftyのメールアドレスもいまとなっては、つかっていなかったので、ずべての解除をお願いした。

 

震災のときに友人がNIFTY-serveで情報を拾ってくれなければ、ネットをつなごうという気にもならなかっただろうし、ましてniftyとの縁もなかっただろう。うまくいえないけれど、とても感謝している。そしてどんな理由があるにせよそういった縁をたちきることにもうしわけなさを感じてしまう。

 

とはいえ、すでにソフトバンク光になり、これまでに比べてものすごく通信速度があがっていてそれはそれでよろこんでいる。

『メビウスの地平』を探せ!

ずいぶんひさしぶりになりました。(懺悔)。

 

先日、日本の古本屋をうろついていたら、永田和宏の第一歌集『メビウスの地平』茱萸書房1975

が高くない価格で出ていた。ぼくはすでに数年前に最も信頼する古書店石神井書林で保存状態のすばらしすぎる「メビウス」を通天閣から飛び降りる気持で(?ひくい?)購入していたのだけれど、それはそれは美しいので、時折ひらいてみるようにこの機にもう一冊購入してみた。果たして、値段の割に状態のよい一冊の「メビウス」が手に入った。

 

かつて、ぼくは塔短歌会のHPに次のよのようなブログ記事を書いたことがあった。

http://toutankakai.com/茱萸叢書(荻原)/comment-page-2/

 

実はあれ以来、限定500部の「メビウス」がいったいいまどうなっているのか知りたい気持ちがおさまらないでいた。

 

それで、ここにアンケート調査を行ってみることにした。このページがどれくらいひろまるのか、「メビウス」の所有者がどれくらいネットに浴しているのか、わからないけれど。みなさまのご協力をお願いします。ある程度のデータを集めることができたときには、どの番号のメビウスがどこにあるのか、というマップ?をみなさまに還元するつもりです。どうぞよろしくお願いします。

goo.gl