みずたまり

はしりながらねむれ

時代映し共選50年@朝日新聞

今朝(4月11日)新聞を読もうと広げると、あれ?いつもと違う。一面を確認すると「山陰中央新報」であった。出勤まであまり時間もなく、とりあえず電話をして「これから出勤するので郵便受けに入れておいてください」と伝えた。朝のあわただしき折りであったが、ぼくとしてはたいそう穏やかに伝えることができた。新聞屋さんにこういうふうに対応できるのには訳がある。神戸で被災したとき、ちょうど修士課程が修了し、次にトライしようか鳥取へ帰ろうかずいぶん迷った。震災がなければたぶん自分の才能はさておき、次にトライしていた可能性=神戸に残った可能性が強い。でも、結果的には鳥取に帰った。そのことについて今でもいろいろと思うところはあるが、ここでは言わない。被災したメゾン六甲はそれでも倒れることなはかった(たぶん今も誰かが住んでいるはず)。ぼくは、その当時も朝日新聞を購読していた。3月。震災でダメになった多くのものと書籍などを整理して、引っ越しの荷造りをおえ、最後に近所の新聞屋さんへ行った。
そこは家屋は破損し、車庫のようなところでおじちゃんが夕刊の広告綴じのような作業をなさっていた。ぼくは、1月と2月の新聞代を払っていなかったので、そのことを告げて代金を渡した。おじちゃんは肩に掛けていたタオルで涙をぬぐって「おにいちゃん、ありがとうなぁ。わたしらどんな時でも新聞配るのが仕事やから配るけど、いまはなかなか支払えんとこもあるし、そのまんま引っ越さはったとこもある」と。ぼくは偽善とかそういうことではなく、ぼくのやったことを偉いことだとも思っていない。ただ、新聞屋さんというのはそれをつくる人、配る人がそれぞれものすごい責任をもって毎日届けているのだと感じた。いくら仕事といえどもこのことがぼくにとって新聞屋さん観になっている。長くなったが、だから、新聞配達の多少のミスはなんてことはない。午後9時過ぎに仕事を終えて帰宅するとちゃんと新聞があった。夕食後、今日が月曜日であることに気がついて朝日歌壇のコーナーへ。いつもの朝日歌壇&朝日俳壇のページの隣ページは全面「朝日歌壇・新選者加え座談会」となっていた!このページをぼくにゆっくり読ませるために、今朝はとどかなかったのだと思うことにした。そして、しっかりこの対談記事を読んだ。以下、抜粋抄出。
 さくら咲きがらりと世のなか変るやうな明るいニュース思ふかなしみ  馬場あき子
 春の酒は新しき友と飲むべかり花咲く闇に窓を開きて  佐々木幸綱
 はじまりに投稿ありき茫々と歌詠みて来し我の四十年  高野公彦
 歳月に濃淡ありて池の辺に亀は眠れる百年のちも  永田和宏
対談の中では、偶然か必然か永田和宏さんが「阪神・淡路大震災のとき、〈かなしくも四五日分のひげ伸びて怪我ひとつなき遺体掘り出ず(岩佐栄三)〉という歌が朝日歌壇にあって強く印象に残っています。遺体のひげが伸びていたなんて、報道では出てこないし、歴史の本にも載らないですよ」と。今朝、朝日新聞が届かなかったのはやっぱり何かのしるしかな。春でばたばたしているぼくに、足下を踏みしめて遠くを見なさいよとでも言いたいのだろうか。